オカリナ奏者 みると
「オカリナ」従来のイメージにとらわれることなく、POPS、JAZZ、サンバ、ボサノヴァなどのテイストを取り入れた独自のサウンドを確立。また、オカリナ本来の癒しの音色にもこだわりつつ、ジャンルにとらわれない斬新なスタイルで活動中。オカリナにエフェクターを駆使するなど、オカリナという楽器のさらなる可能性を追求し続ける若き革命児的な存在。
2006年8月には、在韓日本大使館の後援で、韓国コンサートツアーを実施。 三連オカリナ 「イカロス」を吹きこなす世界でも非常に数少ない奏者としても注目を集めつつ「イカロス」であることに留まらない斬新で自由なスタイルが好評を博し、成功を収める。
2008年または2009年初めに、韓国の大手オカリナ・メーカー「ジン・オカリナ」後援による2回目の韓国ツアーを予定。
ソロでの活動の他、日本を代表するブラジル系若手ピアニスト「今井亮太郎」とのユニット「Agua」(アグア)、さらに複音ハーモニカワールドコンテストの最優勝者「片倉広義」を加えたトリオユニット「Agua+」でも活躍。
また2008年8月、パット・メセニーをはじめとする海外の著名アーティストとのコラボレーションやジャズを中心とする積極的な音楽活動を展開するギタリスト「小畑和彦」、八神純子、西城秀樹、香西香などの著名アーティストのサポートとして30年以上のキャリアを誇るギタリスト「矢萩秀明」とのトリオユニット「TriSeeds」(トライシーズ)を結成。
その他、今井亮太郎がリーダーのユニット「PraiaPraia」による「Live IN Club IKSPIARI」ではゲスト奏者として出演。日本ブラジル音楽界の巨匠「加々美淳(ギター)」、Tスクエア、カシオペアメンバー等のサポートとしても活躍する「亀山アキラ(ベース)」、小野リサのバンドのスーパードラマー「黒田清高」らとの共演を果たす。 2006年10月には、NHK大河ドラマ出演等で有名な世界的ケーナ奏者「リッキー・ロドリゲス」との共演をはたす。
CD情報 
(詳しくは「CDご紹介&視聴」のページをご覧ください。
● 2004年 2月 ファースト・アルバム 「The Tigris」
● 2005年10月 セカンド・アルバム 「Infinity〜無限〜」
● 2006年 2月 みるとアレンジ カラオケCD 第1集 「My Favorites」


みるとの音楽史 (ちょっぴり長いけど、お暇な時にでも読んでみてください ^^)
1982年(昭和57年)5月7日、茨城の小さな個人商店を営む一家の3男として誕生。 音楽も「お」の字も無い、ごくごく普通の一般家庭で普通の人として育てられる。
小学校1年生の時、ピアノの形をした、音階のでる電卓を発見し、勝手におもちゃにして遊んでいるときの事、黒いところ(黒鍵)を使えば、「簡単に作曲ができるではないか!」と大発見♪おもちゃの電卓から生まれた、和というよりは中華風(?)のメロディーがみるとの生まれて初めての作曲になる・・・・・が、いとも簡単に電卓を無くし、作曲活動を断念する(思い起こせば、この頃から独学というよりは、好き勝手に音楽をやってきたんだな〜)
小学校3年のときに茨城の支店経営不振のため、本店が所在する横浜市内に引っ越す。 相変わらず、音楽の「お」の字もない生活だったが、ある日、父の知人から、おもちゃのキーボードのお古をもらえることになった。これが学校のピアニカリコーダー以外に持ったはじめての楽器になる。キーボードなのに、単音2オクターブ半しかでない、本当におもちゃだったが、それでも充分うれしかったことを覚えている。母の好きだったサントワマミー、マイウェイ、イエスタディワンスモア、その他もろもろを耳コピし(楽譜を使わない習慣はこの辺りから始まったと思われる)、誕生日のプレゼント代わりにそのキーボードで演奏した記憶がある(この当たりから変な人になりつつあったのだろう)。
小学校4年生になると、少年少女合唱団というものがあり、無料で参加できるとの事だったので入団。
小学校5年になると、兄が買ってきたチャゲ&飛鳥のCDにはまる。子供ながら、飛鳥の歌唱力、楽曲、そして、曲の展開などに感動した記憶がある。この頃から、学校の音楽教育が退屈になり、授業を抜け出したりする悪い子になる(もちろん先生につかまるが・・・w)。月1、2回の合唱団での歌と、チャゲ&飛鳥で小学校時代を過ごす。
中学に入ると、部活動を選ぶことになる。どれでもよかったのだが、好きな先生がたまたま「スイソウガク部」という、よくわからない部の顧問だったので、そこに入ることにした。スイソウガク部はびっくりすることに音楽の部活だった。
音楽にそんなに興味がなかったので、とくに感動もなく、先生(男)を追っかけて入部(ちなみに、みるとはホ●ではないので・・・・あしからず ><)。
自宅で両親に吹奏楽部に入りたいと伝えると、どうやら両親は吹奏楽というのがなんなのかは、すぐにわかったらしく
「おまえ、、吹奏楽部にはカスタネットはないんだぞ!!そんなの無理だろう?」と、反対(?)した。
「父さん・・・なんてひどい・・・・」と思いつつも、「やってみなければわからないし、お金もかからないから、やらせてください。」と説得。 ちなみに、吹奏楽部にカスタネットはあります。
楽器選びの際、先生に体が大きいからテューバがいいだろうとの事で、よくわからないけど、テューバになった。 テューバになって一つ、悲しい事実を知る。そう、テューバはベース楽器のため、メロディーが無いのだ・・。
1年1学期の間、かなりヤル気の無い生徒として過ごす。2学期くらいから、だんだんとヤル気が出始める。
その頃に、父が気まぐれで、オカリナをプレゼントしてくれた。
「なんか、キタロウとかいうのが吹いて流行ってるみたいだぞ」と・・・・・。
父が宗次郎を喜太郎と勘違いしていることなど知る由も無く、勧められるままなんとなくオカリナを吹き始める。
練習といえば、テューバはなるべく毎日(週5日くらい)、オカリナは3〜6ヶ月に1度という生活が中学卒業まで続く。
中学1年の終わりごろ、姉がたまたま持っていたJAZZのアルバムの中のハービーハンコック「処女航海」を聴く。
(り、理解不能・・・)。この時、みるとはJAZZが嫌いになった。
中学2年になると、祖母の誘いで民謡教室に通わせてもらうことになった。祖母のおさがりの三味線も使わせてもらい、中学卒業まで三味線と唄をならう。
この頃、グレンミラー楽団の存在を知り、CDを聴きはじめてJAZZが好きになる。
一方、部活動では、テューバで自分の用意した曲集でメロディーを好き勝手に吹き、合奏はサボる、というダメ部員になっていた。
高校入学時、三味線、唄に自分勝手にピリオドを打つ。知人から高校生の育成のためのオーケストラがあると教えてもらい、せっかくなので、面接だけでも受けようと思い会場いくと・・・
なんと!オケ所有のチェロを無料で貸してくれるって!?
これはまたとないチャンスではないか!喜んで入団。高校3年間、期間限定チェリストとして過ごす。
一方、学校の部活動をやはり吹奏楽部に・・・・と思いきや、吹奏楽部員はたったの1名。その唯一の部員も幽霊部員・・・・(絶句)。
中学校の吹奏楽部が関東大会常連だったためにギャップが激しすぎたのか、部活が同じだった中学時代のメンバーは誰も入部しなかった。誰がどう見ても廃部寸前の状況を目の当たりにし、B型典型楽観主義のみるとは、こう考えた・・・・(誰もいないって事は、人数さえ集めれば、後は思いのままになるって事ジャン!?)
勝手に、吹奏楽部改めJAZZ部にすることに決め、まずは幽霊部員だった部長を洗脳開始。部長を無理やり部室に連れ込んでJAZZを聴かせ、JAZZのすばらしさを語り、演奏する楽しさを語った。みるとは、ウッドベース(コントラバス)を手に取り、1から練習し始めた(チェロがかなり役に立った)。ベース以外に、トランペット、ビブラフォン、キーボード(片手人差し指のみw)なども携わる。気づけば、10人くらいに増えたJAZZ兼吹奏楽部でオケと並行して、青春時代を過ごす。この頃、ハービーハンコック「処女航海」が好きになる。
高校3年近くになってくると、オカリナが結構楽しい事に気づく(ここでようやくオカリナが表に出てくる)。
しょっちゅうホコリかぶっていたオカリナを、2、3日に1度は吹くようになったのもこの頃。なんとなく、本当になんとなくオカリナの奏者なんてやってみたいな〜という気持ちで、練習を重ね、高校3年の時に、東京王子に開催されたサロンコンサート(現「オカリナスピリッツ」)に参加。
これをきっかけに、同オカリナイベントのホームページ管理などのお手伝いに携わる。
卒業後、大した覚悟も無いまま、オカリナのプロを目指し、ミュージシャン志望とは名ばかりのフリーターへ。
父より、「音楽で食っていくなら根性が必要だ!一人暮らしをしなさい」と言われ、問答無用で一人暮らしへ。 要領が悪く、下手なダブルヘッダー(昼夜のアルバイト)をするようになり、酷いときは平均睡眠時間1時間となる。
ときには、わずかに許されたプライベートの時間10分のうち、4分練習して、4分寝て、2分支度して出発なんてことも。
そんな中、忘れもしないアメリカ同時多発テロ、そしてアメリカ側の報復問題が起こる(2002年9月11日) 。
当時19歳のみるとは、悲惨な光景をブラウン管ごしに目の当たりにし衝撃を受ける。怒りがこみ上げ、ブラウン管の前でぶつぶつ文句?を言っている自分がいた。責める気持ちは、いつのまにかテロリストやアメリカではなく、世界でこれほどの事が起きているにも関わらずブラウン管の前で文句を言うことしかできない無力な自分に向けられるようになる。
自分の無力さを思い知り、同時に覚悟がきまる。
この時、ミュージシャンへの単なる憧れで生活していた自分に別れを告げ、オカリナ、音楽を平和のための武器として、自分の人生を賭けて新しいスタートを切る。
最大目標はグラミー賞(2007現在で達成率0.1%・・・高めの憶測)。
目標達成後は引退し、ボランティア活動と温泉に明け暮れることが夢。
この目標を「達成するまで」、或いは「死ぬまで」は、勝負し続ける。


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